昭和45年10月23日 月次祭
今日の、御祭り前のお話を菊栄会の大和さんが発表しておられました。金光様のご信心をさせて頂けば、このような場合でも、このようなおかげが受けられるという事を、先月からこの辺一体にございました、台風の被害に遭われた事。大きな畳屋さんですから、工場、大きな工場がございましたが、その工場がもう目も当てられないような、状態に吹き倒される。だけではない、自分の住まいの方の麦わら屋根の家ですから、屋根は飛ぶといったような、まぁ、それこそそれを見にきた方が、もうびっくりされるほどしの、被害を受けられた。
けれども、それが今までよりも綺麗な、思いもかけない工場が出来上がったこと。そのことのお礼のお祭りをされました。もうその寸前、前日思いもかけなく、その母屋の方の屋根の吹き替えも向こうの方から、順が狂うたからと言うて大和さんの方へ、もう押しかけるようにして皆さん見えられて、あそこたった二日間くらいで屋根替えが出来て、お礼のお祭りをされる時にはもうあちらもこりらも片付いて、本当にお礼のお祭りに相応しい雰囲気が頂けたと。
その間のことは、今日大和さんが15分20分でとてもお話を出来になられる事じゃない。もう日々お参りをされて、お礼、お届けをされる事だけでも、ほうっち思うほどしにね、万事万端のようにお都合お繰り合わせを頂いておられる。金光様のご信心させて頂いておれば、ね、このような言わばおかげが受けられる、どのような中にあっても、このようなおかげが受けられるんだと言う実証をなさった。
それには先日福岡の共励会の時に、秋永先生がちょっとこちらの御用で留守をしましたから、文男先生がお祭主を仕えさせてもらった。してその後の、ご理解を頂かせてもろうて、とにかくお道の信心をさせて頂く者は、もう何処何処までも実意丁寧神信心を貫く以外にはない、というそれがもう今までにない、かつて感じなかったほどしに、そのことを有り難く感じたとこう言う。
皆さんもご承知のように、言うなら実意丁寧神信心をです、日頃貫いておられるからまさかの時そのような時にです、そのような中にあっても神様の御守護の中に、こうあったんだなぁ神様のお守りの中にあれがあったんだなぁという事が分かるほどしに、おかげを受けたというお話でございました。皆さんどうでも一つ、あの前講を皆さんがなさいますのはね、やはりそれぞれの信心の一生懸命のものが出て来るのですからね。
それをまずお祭りを、霊祭、御霊様のお礼をさせて頂いて、そしていよいよお月次祭を頂かせて頂いく前に、そのことを頂いて私はお祭りにかからせて頂くというくらいなね、熱意というこどしじゃないね、心かければ誰でも出来る事なのですから。朝早かっちうなら、起きれんちゅうのがあるけれども、夕方少し昼頃から心がけときゃ誰でも出来る事を、まぁやっとほんなもう太鼓がドンドンなり出してから走ってやって来るというようなことでは、それが頂けないでしょうが。
折角お月次祭にお祭りをしたならばです、お祭りをさせて頂いたなら、本当にね、5よりも10、10よりもやはりそのお月次祭の中に込められておる有り難いものをやはり、頂いて帰れる。今日のお祭りは自分一人の為のお礼のお祭りであったような実感を持って帰れるような、工夫を皆さんなさなきゃいけないと思うですね。心がけです。信心は心がけでするもんです。ね、折角お参りをさせてね。
バス代でも車代でも油代でも同じ事でしょうが。ね、お初穂だって遅かったけんで、そのお詫びの印に百円でん余計奉るっち言うても、皆さんなさらんでしょうが(笑い)。ね、ですからそれだけの事はやはりもとを入れなければならんのですから、もと入れるならそれだけ、がた私は。例えばお芝居を見るのにですね、三番叟から見らんで、一番最後のだけみりゃいいといったようなことではなしに。
始めから、いや、始めからではない、お芝居の始まるその前の芝居ごやの雰囲気から味合わせて頂くといったようなね、気持ちがいるんじゃないでしょうか。これは芝居好きはそうです。だから皆さんも信心が好きにならなきゃ上達しませんです。好きこそものの上手なれ、です。ね、皆さんがただおかげ、おかげという事だけに、私は終止しておったんではですよ、ね、少しばっかり弾んでからおかげだけはうんと頂こうちゅうな考え方ではね、もう考え方が第一間違ったる、間違うとる。
私の教話させて頂く前に、お月次祭からお月次祭までの行事を、マイクで流しております。それこそ、そこで三々五々ガヤガヤ、ガヤガヤここへ座っておって私は、折角あーしてもう次から、色んなもうどういう行事のどういう事を言うておるか分からん。それをガヤガヤ、ガヤガヤ何人かでお話をなさって、皆さんがなさっておられる。そしてこの度小倉参拝のご直会が来とりますからと言うたら。
ぴしゃと皆さんが止められましたね。もらいそこのうちゃならんと思われるのじゃないでしょうか(笑い)。人間ちゃ本当に、さぁ何かただ今からあげますちうたら、ぴしゃっと話を、止んでしもうたっちゃから、私ここで聞きよった。ね、本当に人間な、いや汚いもんですけれどです、ね、そういう意味で私は発揮するごと汚かったっちゃつまらん。ね、信心とは確かにね、今日もある方が参って見えた時に頂いたご理解ですけれども、信心というのはとにかく、信心させて頂いて人非人になって行くことなんだ。
信心が、万物の霊長だと言うておってもです、ね、あれが人間だろうか、あれは人間の面かぶっとるだけだと言うようにです、我情我欲で固まって、いわゆる人非人になって行く人がある。信心させて頂く者は、「信心とは、わが心が神に向こうていくのを信心と言うのじゃ」と仰せられますようにです、私の心がもう人間の心ではない、神様が思いなさるであろう。神様が感じなさるであろう。
と言うようなね、思いが心の中に段々頂けて来る。いわゆる人であって人でない方に、同じ人非人でもこのように変わって来るんです、上と下と。ね、それが信心なのだ。それに何時まで経っても、いわばその何かやるちゃそのはっとこっちを向く、ただ行事の時にはガヤガヤ話とると言ったようなね、考え方ではおかげを受けられませんよ。そういうものがないようであって自分の心にはあるんです。
皆ね今朝からのご理解のようにです、何かに事に直面してみて驚いた、びっくりした。悲しかった腹が立った。そういう時に自分の心の中にある、ね、いわゆるおかげの受けられない、はぁこれではおかげの受けられないという砒素検出をしなければいけないというご理解でしたよね。ね、井戸の中に、から砒素が検出されたと言うのである。ね、今までは知らずに飲みよった。けれどもそれが害を及ぼしておった。
それが分かったから、そのき、その砒素を検出しなければならないということに、でありますようにです。私共の様々な問題、様々なことがらの中にです、直面した時に自分の心の中に、自分にはそげな汚かもんはないように思っておったけれども、あったと分からせてもろうて、それを検出して行くところからです、ね、わが心が限りなく豊かに大きくなって行きよる。今日ある方お届けをされました。
もう昨日から何か胸が詰まるようにある。何か知らんけれども、心が落ち着かない。そうそう不安である。日頃はあれ程しに神様の間違いなさを人にも話ておる自分がです、まぁどうした事であろうかと思うけれども色んな問題が重なった。まぁそれだけでもなかろうけれどもです、なんとうなしに心がめいってどうにも出来ない。不安で不安でたまらない。ところが、ね、
お参りをさせて頂く途中に主人がこういう事を申されます。折角金光様の御信心をさせて頂くのであるから、金光様の御信心、いわゆる金光教的ものの見方考え方が出来るごつならにゃ馬鹿らしかということを運転しながら話された時にです、はぁそうだったと思うたらいっぺんでこれがスキッとしたっち言う。折角金光様の御信心を頂いておるのであるから、金光様の信心、いわゆる金光様の御信心。
金光教的な物の見方、考え方というのがあるのだと。しかも、その物の見方、考え方こそが真実の生き方であると。真実の物の見方であると。それが本当ことであるということは、日頃信心の稽古させて頂いて、まぁあらゆる角度から頂いておる、のにも関わらず自分は昨日から今日にかけてこのような心の焦燥はどうしたことであろうか。どうにもしようがない。横に乗っておられるご主人が運転しながら。
そのことにはまぁ、感じ取っておられるか、その事のために言われたかどうか分からんけれども、ただ一人事のように言われたその一言が、はー本当に金光様の御信心を頂いて、金光教的物の見方、考え方さえ出来りゃ嘘のように、付き物が落ちたように心がスッキリすということはもう何と有り難い事かと言うて、お礼のお届けがあった。金光様の御信心。言うならば、教祖様の御生きられ方というものがです、ね、教えの様々な、教えの中に、教祖様のお人柄というものが出て来る。
日ごろしっかり頂いとかなきゃいけないと思う出すね。今日も、ある方がご兄弟で、お姉さんの方は、もう十何年合楽にもう大変な死ぬか生きるかというような問題。と言うのはね、自分のご主人を妹さんにとられっしもうた。もうそれこそもう、もうそれ起きた時にはもう、それこそ目の前が真っ暗なって、それこそあてつけに、もう死のうかまで思うた。たまたま、ここに御神縁を頂かれる方があって、教えを頂いて毎日毎日遠方から、毎日その当時は参って来た。段々心が開けて来た。
遠方の事ですから、まぁ月に4、5回くらいしかお参りが出来ません。ところがね、今日はその妹さんをお導いて参って見えられました。もうそれこそ、なんもなかったか事のようにして、実に仲良う。その妹さんが胃潰瘍ようで、大変医者が難しゅう、事を聞かれて、毎日そのことのお届けがあった。妹さん。今まではいくら妹でも本当に殺してやりたいほどに思うた。その妹のことがです。
段々金光様のご信心をさせて頂いて、金光教の助かり。金光教のいわば助かり方というものをです、ね、もののいわば見方考え方、それはただ、こじつけっていうものではなくて。そのことが本当だと、それが真実なのだと言う頂き方を分からせて頂いたら、今の妹の事が祈らなければおられない、思わなければおられない。たまたまそのような病気になりましたから、おかげを頂かれて、御神米を持って行かれる。
お道の信心の話をされる。良くなったらお姉さん、私も連れてまいってと言うて、退院のおかげを頂いたからと言うて、今日お礼参拝があった。ね、お茶でも差し上げながら、まぁ色々お話させて頂いてね。人間ですから、どこにお粗末やご無礼やらあるやら分からない。けれども金光様のご信心をさせて頂くとね、過去のどういう罪業、どういう例えばお粗末、ご無礼なことがあっておっても、そのことの全てが生きて来るんだと言う話をさせて頂いた。
そのことが生きてくるのだ。あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると一人前の信者じゃと教祖は仰る。過去の全ての事、それもやはりおかげであったと、現在、今持っておるおるところの自分の難儀、悩みというものもです、これもだからおかげなのだと、分からせて頂く時に信心も一人前だとこういう。そういう道なのですよと言う、今日はもう、本当に涙ぼろぼろ流しながら私の話聞いて、聞かれて、聞いて下さって、これからも、本当にまたお引き寄せを頂きたいと言うて帰られた。
私はどういうことになるか、これから先は分からんけれどもです、そういうようなね、言わば、血と血で洗うようなね、ことにもなりかねない所をです、お道の信心によって助かって来た。金光教の信心の助かり方。それにはね、本当の物の見方考え方というものが出来なければ出来んのです。昨日もある方が、ある金銭の問題で、もう先生僕はもう気違いになるごとあるち、言うて参って来た。あの問題この問題。
しかもその上この金銭の問題を、そのこんなまとまった金を急に払わなければならなくなったと。僕はどうしてよいか分からんと。ここでうっついてそのお届けをされました。それで、そん払う金はなかとのっち言うたら、いんやありますち。あんならあんた払えやよかじゃないの、あんたの金でばしあるのと私は申しました。そしたら頭を上げてから、はー改まって、改めて聞いたようにしてからですね。
そのことを聞いておられます。ね。それこそ、神様の御物である、神様のお金であるという、言わば見地に立ったら一つも問題じゃないのです。大きくなりなさい、大きくなりなさい。大きゅうなるとね、あんたがあの問題、この問題と言いよるけども、その問題もすぽーっと自分の心の中に泳がせることが出来るようになるよ、そんなことで大きゅうなんなさい。と私申しましたら、今日また、参って来た。
今日はもうそれこそニコニコで参って見えた。おかげを頂いてもう本当にもうそれこそ有り難く、それこそ神様にお供えするような思いでそれを放す事が出来た。おかげでね、この問題もあの問題も、今はここの中に泳がせる事が出来る程しのおかげを頂いておられる様子を、その様子の中から感じ取らせて頂いて、ね、有り難いなぁ金光様のご信心で頂く日頃のみ教えと言うものはです、ね、いわゆる本当の意味においてのものの見方考え方というものが出来て来るところに、それは問題は問題じゃなくなって来る。
いやそれが有り難いものになって来ると言う事になるのです。ですから金光様の御信心はやはり、本気で信心の稽古をしなきゃできません。しかもその稽古がね、先ほどから申しますように、少し馬鹿じゃなかろうかと言うくらいにね、信心が好きにならなければ、そういう素晴らしいことに触れていけません。ご直会をお分けしますよ、ちゅう時にはピシャッと話を止めてしまう。
大事なお話のやりよる時には、てんでガヤガヤ、ガヤガヤ。先生あげな風に言うけれども、本当にそういう内容が自分の中にあるんだから、それを、それはもうね、それを建設しなければ駄目になる。ね、もっと真面目に信心を頂かなければ。ね、いわゆる、大和さんが言うておられますようにです、ね、実意丁寧神信心がね、日々の信心生活の中に本気で現わされなければならないという事なんです。
本当のことが分かっていくという事がね、有り難いのです。ね、それが自分の物になっていくという事が。ですから今まで、言うならば人間的な物の見方。そこで先ほどから申しますうようにね、ここに、ここを一つのまぁ人間ね、それが人間が人間ほっておきますとね、これに我情が付き、我欲が付き。それこそ性が変わって人非人に成り果てて行くのが普通の人間の生き方なのです。それで一生終わって行くのです。
ね、万物の霊長と、例えば自分でいかに自負しておってもです、ね、その根性の中に、それこそ動物的な、ね、例えばおかげが頂けないとするなら、やはりそういう汚れに汚れて行きます時に性が変わってまいります。ね。例えばタオルでもにしめたようになってから、洗いもせんなら、汚れが汚れに染み付いて、ね、性が変わってビリビリなってしまうようなもんです。
それを信心とは、ここのところからです、今度は、わが心が神に向こうのを、信心と言うのじゃ、それが真の道なんです。それが真の人なんです。ね、その真の人を目指して行こうと言うのが信心なんです。だからいわゆる、段々一歩一歩真の人になって行く、言うならば神に向かって行くのでございますから、ね、ものの見方が変わって来る。視野が変わって来る。考え方が勿論変わって来る。そこに、今まで腹が立っておったことが、腹が立たんで済む。
今まで不平不足を思うておったことが、反対にお礼を申し上げねばならないことであるということに気付かせてもらう。ね、そういう稽古をです、いうなら日々信心の稽古に、ここに通うて来ておっても、んならいよいよ何かに直面するとです、ね、分かっておるけれども、どうにも自分では出来ないという自分に気が付かせてもらう、それは自分の心の中にね、検出していかなければならない、取り出して行かなければならないもの。改まっていかなければならないものをそこに発見する。
今日、夕食の時でした。高校に行っておりますあの直子が、もうひもじいひもじいち言ってから帰って来たそうですから、公子さんがなら何かお菓子なっとん頂いて来てやろうっち言うてから、冷蔵庫の中からお菓子を出して来た。丁度若先生も風呂から上がって裸でやって来た。して、自分も一つそのお菓子をつまんで食べようち。ほしたら所が腐れとるじゃないかと言うわけで、食べてからそこにポンと置き、勿体無いことするなっち。そればってん、あんたほりゃ、もう臭うなってからネバネバしよる。
ところが直子は、それを平気で食べておる。中に書いておる説明を読んでおるから。これは3ヶ月くらい、買うたらほって置いたらですね、粘りが出るようになる。臭く、腐敗状態になる。その時が一番美味しいんだと、これは英国かどっかのお菓子です。書いちゃるです。だから、ほー、このネバネバがよかってい、と思うて頂きよる。とこの人は、一口食べたらポーンとこう捨てて勿体無いことするなっち言うて。(笑い)ね。ところがね、その皆例え(とこ?)からわざわざそげな高かお菓子じゃけん、その自分じゃ買うちゃ食べきらんとですね、誰でん、あげなお菓子。
ほれけんわざわざ、その貰うたらもう直ぐ開けちから、もう食べてしまわにゃならん。だから、ただ美味しゅうはあるばってん、その、本当のそのお菓子の味わいと言うものには触れきらんなりしえしまんならん。まぁ少しどん取っとこうち言よるとが、いっちょへり、ふたつ減りちゃんといよいよ美味しゅうなるときにはしまいしもうとる。私はね、その時思うたね。皆がこのような信心しとるとじゃなかろうかと思う。一つの問題なら問題でもです、それを3ヶ月なら3ヶ月ずっと信心でですね。
その、かもすと言うですかね、いうなら納豆作る時のようなもんじゃないでしょうかね。私はまだ頂いとらんですけれどもね。今日後から、お茶ん時に(でえちから?)誰でん食べさせようち思いよる。ほんなこてやっぱ、腐っとるような匂いしよる。けれどもその、説明書には3ヶ月くらいで、あってから粘りが出て、匂いが出た時が一番この、お菓子の、いわゆる本当の味だと言う。その本当の味に、お互いが触れきれないでおるような気がするんです。
どうにでも一つ折角信心をさせて頂くのでございますからね。まぁいっちょう、その3ヶ月くらいな事のためなら、辛抱してですね、もう直ぐ、見らにゃ、見よったら直ぐ食べしもうなゃ出来ん、と言うような、言わば浅はかなね、浅ましい人間的考えから、ね、それがこうしもうておけれるようなね、おかげを頂かせてもろうたら、そこに本当のそのお菓子の味わいが味わえるように、ね、信心の本当の味わいというものはね、こういう大変な、もう目の前が真っ暗になるようなことを頂いてもです、ね、
それを心静かに受けて行けれるということは、何と言う有り難いことかというようなね、そういう味わいに触れて行くおかげを頂かせて貰わなければいけません。今日私は大和さんが、金光様のご信心をさせて頂けば、ね、こういうようなおかげが受かられるんだという、今度の台風に被害を合われたことを通して、様々な体験を発表されました。ね、そうして、結論として、金光様のご信者のところまでも実意丁寧、神信心ということをです、文男先生から聞かせて頂いた時に、新たなこととして頂けた。
ね、ここに焦点を絞って稽古して行く以外にはないと思いましたと言うて、まぁお話を終わられた。ね、今のそのまるまるさんの話じゃないですけれども、日頃をこれほど、もうそれこそ神様な自分のもんのごと思うて、もう神様と親戚付き合いが出来るごと思うておって、実際の問題に直面させて頂いたら、昨日から今日にかけての自分の心はどうした事であろうか。
このような事に心が尚早しておる。ね、淋しゅうてたまらん。心が暗くなってめいって行くという時にです、ご主人の言わば何気ないお話の中から、とにかく金光様のご信心をさせて頂くなら、金光様のご信心ぶりにならなければ、言うなら金光様のね、金光教的物の見方考え方ん出来なきゃ馬鹿らしいと言われる、その独り言のようなことを聞かせて頂いて、そうだったと思う。思うた途端に、これがスキッとして来たとこういうのである。有り難いね。
例えばお金でもね、こればもう払わんなんかと、付いて行こうごとある。それがあんた、あんたがもんでばしある、ね、と頂いたら、この一言でね、そうだったということが分かった。そのことだけではない、あのことこのことが問題重なっておる。もう僕はもう本当にどうにもしよう、どうにもこうにもしようがないと言うのが昨日のその人の姿であった。今日はどうですか、ニコニコ。
それこそ、もうおかげ頂いて、あの問題もこの問題も、その心の中に泳がせることが出来た。もうこれは昨日今日の話。ね、今日お参りさせて頂いた。それこそ血で血を洗うような、例えば事でも起こりかねないような事件の中にです、初めて金光様のご信心を頂いて信心の稽古をさせて頂きよったら、それこそ突こうか、刺そうかと思うごと、はがゆう思うたその言わば肉親の妹ですから、なおさらその情は強かったろうとこう思うです。ね。それを導いて、今日はお参りをして来て兄弟仲ようおかげ頂かれて行く。
そこからね、また新たなおかげの道が開けて来るように、今日私は思うた。だから本当の、例えば物の見方考え方が出来るとそのようなおかげを受けられて行くのが金光教のご信心なんだ。ですからそういう、大変な信心を稽古させて頂くのですから、ただね、おかげ頂かんならんけん、この頃ご無礼しとるけんでお参りするというようなものじゃなくて、本当に信心の稽古、私は今日の御理解の中にも申しました。
ね、私のこの御理解はね、もう今日おいては出来ない話なのだ。ね、言うならばこれを私の遺言と皆さんが思うて頂いて下さいよ、と言うて言うほどしにです、それにお参りをして来て、ご理解がありよったっちゃ聞きもせんでつーっと帰って行く人が、もう私は本当にもう分からない。それでおかげだけは頂きたい。そういう人が私はね、大事な話の時にはガヤガヤいよって、さぁご直会を分けますよっち言うた時にピシャッと話を止める人じゃなかじゃろうかち私は思うた。
そういうものがね、例えば内容にはあるのだ。だからことに直面してみて、汚い心。まだなっとらん、自分の心というものを、本気で分からせて頂いて、その焦点が狂うておるなら、どこが狂うておるかということをです、確かめさせて頂く稽古がね、やはり信心の稽古。ここには信心の稽古に来るところなんだから。ね、そういうおかげを頂いて欲しいと思います。
私は明日、あの、晩から御本部参拝のおかげを頂きます。古川の、あの古川この様ね、古川、式年祭というたら、45年の式年祭がある。金光教の本部が中心で、金光家の方がたが百名集まられるそうです。その中に私も、今度参列をしてくれるようにというて、ございますから、家内と二人でお参りをさせて頂くことにいたしております。もう今日は、昨日から茂さんと、高芝さん、あの、久保山茂さんと、高橋さんがそのことでもう色々、色々なご心配をかけておりますが、
だから誰かそのついていかにゃいかんち言う。いんや今日はもう私共夫婦でよかち、言うことでした。したら今日はいよいよ、いやどうでも誰かあの、私がついて行くという事に、高橋さんが言われます。それから、実は夕べからね、あの今高校に行っておる幹三郎を同道して行こうと思います。だからいっちょ今度だけはね、いっちょ本当にご親切有り難いばってん、親子3人水入らずで行きたいからね、御免こうむると私が言いましたらそげん思うとるならそうして下さい。
それでその奥様にが私がその時計をよう見きらんことが知っちゃるもんですから、奥様に時計を買うて上げるはずじゃったらしい。ね、だからあの人もあんまり見きれん、私と同じことで見きらんけんで、そんなら幹三郎にですね一つ買うてやって欲しい。で今日は沢山時計をそこに持って来てその中から見本をよらせて頂いて、たらもりゃもう幹三郎ちゃんのじゃけん、幹三郎ちゃんが選べたらよかろうと言うのでその。
本当ですよやっぱそりゃ、もう本当にその子の気持ちになってみにゃ分からんですもう皆でこれが良い、これが良いちいよっとったんですよ。ところが全然違う、僕はそげなきざなとはいかんち、僕はおとなしかとが良いち言うちから、一番そのおとなしいとを買うとです。これはそして1万3千円、13じゃけんで、これがよかっちいうてから、それを買いました。
ならやっぱ、あのあんたに見せにゃ出来んやったのと言うてからね、そうでしたけど。そのようなわけで御参拝のおかげを頂きます。10、25日のお祭りですから、その晩はまた、発ちます。ですから26日には帰らせて頂きます。ね、お初穂など御託になる方はどうぞ。この頃御本部参拝なさったばかりですから、ね、あの強いてということじゃありません。けどお初穂なさる方はどうぞ事務所にお届けを頂きますように、よろしく。
どうぞお願い申し上げます。